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サクラさんへ

 投稿者:HP執行部 副管理人  投稿日:2017年 3月23日(木)06時16分46秒
返信・引用
  おはようございます。

>お返事が遅れてすいませんでした。

いーえ。

皆、日々の生活があるのですから、気にする必要などありません。
皆、それぞれに匆(いそがし)いのです。

>●『 あなたは、御本尊様のお力!といいますが御書のどこに御本尊様にお力があると書いているのですか?
>御本尊の仏力・法力は無限だ!と言いますが御書のどこに書いているのですか?』

これ、信仰者が言うセリフでしょうか。

御書のどこに御本尊様にお力があると書いてあるのか? などと。

いやはや…。

こんな事を言う学会員などは、初めてです。

まぁ、この学会員のセリフを借りるならば、当の本人からして、力のない本尊に向かって毎日拝んでいる、
という事になります。いや、まさか、この俺様が力のある本尊にしてやろう、と念じているのでしょうか。
いずれにしても、この学会員は不信増長の邪人という事になります。

それにしても、酷(ひど)い学会員ですね。(脱会員だとしても同じ事です!)

「御書のどこに御本尊様にお力があると書いてあるのか?」

呆怒。

ならば、なぜ、力のない本尊に対して「御」を付け「様」を付けているのか。
いや、それよりもなによりも、なぜ、力のない本尊を拝むのか。

その事をハッキリしなさい。

はて…。何やら、サクラさんの繰り出す「質問」に対して、私が破折叱責するモードになって参りました。


もとより質問には二つの性格があります。

その一つは、自分の思考からして理解できない、分からない、だからこそ知りたい、という普通の質問。

もう一つは、他者の主張を自分の質問に置き換えて(または、自分の考えを他者の主張に置き換えて)、
相手がどのように回答(反論)して来るのか、それを試そう(確認しよう)とする質問です。

もとより前者は、自然と質疑応答になりますが、後者は、そうは行きません。
それこそは論戦破折の様相となりましょう。無論、そうとなれば、そういう他者の理論を持ち出す
「質問者」も、その一員(同類)と見なして論戦破折の対象となって行きます。

果たして、サクラさんは、どちらの質問者に入るのでしょうか。

もちろん、前者である事を私は願っております。

>●『 あなたは、御本尊様のお力!といいますが御書のどこに御本尊様にお力があると書いているのですか?
>御本尊の仏力・法力は無限だ!と言いますが御書のどこに書いているのですか?』

書いていますよ。

本尊供養御書に曰く、

「法華経の文字は六万九千三百八十四字、一々の文字は我等が目には黒き文字と見え候へども仏の御眼には
一々に皆御仏なり。(中略) 須弥山に近づく鳥は金色となるなり。阿伽陀薬は毒を薬となす。法華経の不思議も
又是くの如し。凡夫を仏に成し給ふ。蕪(かぶら)は鶉(うずら)となり山の芋はうさぎとなる。世間の不思議以て
是くの如し。何(いか)に況や法華経の御力をや」と。 【新編 1054】

もとより、本尊供養御書に記される「法華経の文字」を「御本尊の御文字」と読まずして何と読みますか。
学会員の端くれであるならば、当然に解かるはずであります。無論、当御書以外にも、御本尊の御力を示す
御書などは沢山あります。

しかし、サクラさんがいう脱会員は「御書のどこに御本尊様にお力があると書いてあるのか?」などと、
訳の解からない事を言っております。この方、大丈夫ですか? もしや、脱会後にどこかの新興宗教に
入られたのですか? 見ていてあまりに情けなくなります。

>『仏力・法力とは後から作られた造語ではないのですか?』

はたして「如来秘密神通之力」を仏力と表し、法力と表して何がおかしいのですか?
もとより「如来秘密神通之力」とは、仏の力を示すものであり、法の力を示すものであります。
前記であろうと、後記であろうと、その表記表現が正しければ、それで良いではありませんか。

>『日蓮大聖人様は、仏力・法力は無限だ!とかは言っておられません』

ならば、仏力・法力は無限ではない(有限である)、という文証をここに提示しなくてはなりません。
なお、言って置きますが、如来秘密神通之力は無限です。だからこそ不可思議境というのであります。

>この方は犀角独歩様の教学にはまりました・・・・。

犀角独歩?

とうとう出できましたね。

この者も「考える人」と同じく、日蓮正宗批判の急先鋒、つまり、アンチ日蓮正宗の一人です。

サクラさんは、アンチの論文に興味があるのですか?

>だけど、、、私はどうも犀角独歩様の教学も非常に哲学的&儒教的仏法でついていけませんでした。
>再度、すいませんがどうか教えてください。

ついていくも何も、犀角が言う本質論こそは、日蓮正宗奉安堂に格護される本門戒壇の大御本尊に対する批判
中傷です。だから言うのですか? 仏力・法力などは後から作られた造語であり、有限であると。
まさしく伏線がありそうですね。

それにしても「儒教的仏法」とは一体何ですか? その一点をここに御示し下さい。

元学会員・考える人・犀角独歩…。

御本尊を道具と考え、その不信心を自慢し、屁理屈ばかり捏(こ)ね回す、邪見増長慢の一闡提人たち。

以後、これらの者らが主張する邪論を、サクラさんが質問と称して投稿して来るのであれば、
私は、それらの邪論を投稿するサクラさんの「信心姿勢」をも含めて、大いに破折せねばなりません。

悪知識には近寄るべからず。

これが、私からの忠告です。
 
 

~ 追伸です! ~

 投稿者:サクラより  投稿日:2017年 3月22日(水)13時02分5秒
返信・引用
  副管理人様へ

お返事が遅れてすいませんでした。
(病院の検査のために。)
先日の回答のお返事ですが後でここからメールを送ってよいでしょうか?
それとすいません!
この前の質問でもう一つ聞くのを忘れていました!
再度、すいませんが聞いてよろしいでしょうか?

● 『 あなたは、御本尊様のお力!といいますが御書のどこに御本尊様にお力があると書いてい

るのですか? 御本尊の仏力・法力は無限だ!と言いますが御書のどこに書いているのですか?

その仏力・法力とは後から作られた造語ではないのですか?

日蓮大聖人様は、仏力・法力は無限だ!とかは言っておられません。』

と、ずっと前ですが創価を脱会したもう一人の男子部の先輩に言われました。

この方は犀角独歩様の教学にはまりました・・・・。

だけど、、、私はどうも犀角独歩様の教学も非常に哲学的&儒教的仏法でついていけませんでした。

再度、すいませんがどうか教えてください。
 

サクラさんへ

 投稿者:HP執行部 副管理人  投稿日:2017年 3月19日(日)07時30分16秒
返信・引用
  >副管理人様へ
>おはようございます。
>昨夜はお返事を頂きありがとうございました。
>私もあまり上手く言えなくてすいませんでした。

いえいえ、謝るほどの事ではありません。
どうか、お気になさらずに。

>日蓮大聖人を御本仏と仰ぐ皆様へ ( 考える人 ? 日ノ光に変更 )
>この方は、脱会後に知ったブログです。( 元創価学会の男子部・沖縄の人 )

そうでしたか。

>私みたいな脱会した方がよくこのブログに訪れるそうです。

私みたいな脱会した方…。

いーえ、それは逆です。

それを言うなら『私のように見事脱会された方』です。

>実は、、、まだ3回ほどブログにてコメントを書いて相談したぐらいでした。
>まだ多くの質問があり再度質問したが最後にコメント(1か月ぐらい前)してからはコメント欄に
>返事をくれませんでした・・・・。(もう返事をくれません!)

まさに、不幸中の幸いとはこの事でしょう。
この機会に悪知識に親近するのは止めましょう。
もちろん、閲覧も必要ありません。

>考える人 ~
>『だから本当に困った時は己心の妙法の力を信じて呼吸をするようにお題目を上げることです!』
>私も最後の指導を信じてこの方の指導の通りにお題目を上げてきました。
>だけど、、現実の深刻な悩みは解決しませんでした!(泣)

もとより、そうでしょう。

困っている自分が、その困っている命に向かって題目を唱えて一体どーするのでしょうか。
もちろん、解決など出来ません。

>Q 唱題と祈念はやはり違うのでしょうか?
> (この方もこれを混合している?御書では何か祈り方を分けて指導しているような気がします。

違います。

唱題とは、御本尊に対して題目を唱える事であり、祈念とは、その時に念じる「願い」の事です。

>Q では本当に困っている人(末期癌、一家離散、倒産、難病で痛み苦しんでいる人?)は
>その時はどの様に祈ればいいのですか?( 現在 ~ 本当に困っています。)

もとより祈念とは、願いを念じる事でありますから、

どうか御本尊様! この私をお助け下さい! この苦境をお救い下さい! どうかお願い致します!
南無妙法蓮華経! 南無妙法蓮華経! 南無妙法蓮華経!

これで良いのです。

再度言いますが、自分に対して「どうか自分様! この私をお救い下さい。お願です !南無妙法蓮華経!」
これはダメです。自分が自分に対して「この私を救ってください!」などと言うは、まさしく自己陶酔の世界
です。

>●この方は、、『 己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず霞法なり。』
>『心の外には法なきなり。』と御書では心の外に求めるのは外道だと書かれているそうです。
>『 仏法で法を外に求めるのは外道!です。』仏典にあるそうでした。

これは『一生成仏抄』の一文ですね。

なお、ここでいう「己心の外に」とは、三大秘法を受持する心以外に、と読むのが正解です。
そして、その三大秘法を受持する一念心が、宇宙法界に遍満する事をもって『一心法界』と言います。
もちろん、三大秘法の中心は、大聖人の御本懐たる御本尊様でありますから、その御本尊様を「信じて」、
強盛に祈れば、つまり「大信力」をもって祈れば、そこに自ずと結果が現れる、という事です。

>しかし、、御書【 四条金吾殿御返事 】 ?
> 此の日蓮は主題の五字を汝にづく 法華経受持のものを守護せん事を疑いあるべからず・・・・・。
>これにつけても強情に大信力を出だし給え!・・・・。
>ただ心こそ大切なれ。いかに日蓮祈り申すとも不信なればぬれたるほくちに火をうちかくるがごとくなるべし。

>励みをなして強情に信力を出だし給うべし・・・・・。

そうです、この御文は『四条金吾殿御返事(略称・剣形書)』の一文です。
無論、この文中にある「ただ心こそ大切なれ」の「心」とは、先ほど申したとおり、三大秘法を受持する一念、
つまり、その根本である御本尊様を「信じる一念心」の事を言います。だからこそ、日蓮大聖人は、この一文の
続きとして「いかに日蓮祈り申すとも、不信ならば濡れたる火口(ほくち)に火を打ちかくるがごとくなるべし」、
と申されているのです。つまり「この日蓮がいかにあなたの事を祈ろうとも、あなた自身が不信心であるならば、
それこそ濡れた火口に火はつかないように、私の祈りは通じないのである」という事です。

つまり、この御教示こそ、境(日蓮大聖人/御本尊)と智(大信力)の冥合を示されているのであり、つまりは、
たなた自身が不信心であるならば、いかに日蓮に向かって祈ろうとも、その祈りは通じるものではない、という
意味にもなるのです。

したがって、

>考える人さんの解説 ~ この御書は四条金吾が厳しい状況下にあった時のご指導です。
>大信力とは『 他者を絶対に魔から守り・救わんとするのが大信力です!』
>一切衆生を救わん!自分以外の不幸な人達を救わん!とが大信力です!
>人は不幸の真っただ中にいる時には自分の事だけで精一杯になり、祈りも自己中心的になりますが、
>そんな時も自分以外の不幸な人々を救わん!と大信力を出したいものです。
>自行他行に亘ての南妙法蓮華経です・・・・。

との解説は、それこそ「考える人」が言うところの「自分を信じて自分を祈る」思想からして、まさに天理教の
教え(どんな苦境に立たされても、どんな苦痛に苛まされても、日々陽気に暮らして笑顔!笑顔!)に類似する、
まさに「二重感情」のそれである、と私は思うものです。苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに
思い合せて……。これこそが信心の基でありましょう。

> 私 ~ この点がどうしても納得がいかなかった!
>大信力 ? 私はこの御書を読んだ時に感じたのは仏の加護&諸天善神の加護を信じろ!
      にしか解釈できなかった。

もとより、それが正解です。
御本尊様の御加護を祈る。そして、苦境からの脱出を祈る。して、その大根本こそが「大信力」という事です。
何度も言いますが「大信力」とは、御本尊様の御力を信じる一念心です。よろしいですか?


>Q もし良ければ考える人さんに己心の妙法 / 御本尊様のお力についてコメント欄で聞いてくれないで
>しょうか?
>私も、どうしても御本尊様にお力があるのか?それともないのか?はっきりさせたいです。
>脱会後に、この方に指導をもらったのでどうしても頭の中からこの方の指導が離れられない!!
> ( 私が質問してももう回答してくれんません・・・・。)

己心の妙法(仏性)は御本尊様の御力によって導き出される。
しかして、御本尊様の御力は、我ら己心の大信力によって示される。
だからこその「境智冥合」。これ以上の答えはありません。

なお、サクラさんのご要望ですが、私は、この「考える人」に質問する気などはありません。
上記に示した結論こそが正解です。もとより、私がコメントしたとして、それこそは質疑応答とはならずに、
互いに破折叱責の応酬となりましょう。そうとなれば、余計な時間を費やす事となり、サクラさんへの応答も
難しくなります。それだけ、一大秘法義(御本尊か題目か)に関する論議は、一朝一夕では済まないのです。
まぁ、サクラさんのご要望については、私に時間的余裕が出来ました時に、一考する事に致しましょう。

しかし再度申しますが、サクラさんにおいては、もはや、「考える人」に質問する必要はありません。
もちろん、閲覧する必要もありません。


>私も大分分かってきたような気がします。

そうです! だからこそ! です。

>もしこの方のブログが間違っているようであればもう見るのはよします。

そうです! それこそが賢明な判断です!

>御本尊様も近くのお寺に持っていこうと思います。

いや、サクラさん。

もし、そうなされるのであれば、その前に一度『脱会相談館』に相談して下さい。
そうすれば、懇切丁寧に、創価本尊の返却について教えてくれます。
もちろん、その後の道筋についても、親切に教えて戴けるでしょう。


老婆心ながら今一度申します。

末期癌、一家離散、倒産、難病で痛み苦しんでいる人が、その苦しんでいる自分自身に対して『助け給え!』
などと、そのような信仰はありません。もとより信仰とは、仏(御本尊)を尊信して、懸命に祈る事をして云う
ものです。

日蓮大聖人に曰く『我即ち仏、我既に解(さと)りたりと云ひ、又是心是仏と云ふとも経論に依らずば悟りにも
あらず、心法にもあらず仏法にもあらず』と。【新編 334】

もとより、ここで言われる『経論』とは法華経の事であり、その法華経の根幹こそは御本尊でありますから、
御本尊に依らない是心是仏こそは、まさに己義邪心にして仏法ではない、という事になります。

よろしいですか。

この事を先ずもって肝に銘じて参りましょう。
 

~ ご質問です! ~

 投稿者:サクラより  投稿日:2017年 3月18日(土)09時43分26秒
返信・引用
  副管理人様へ

おはようございます。
昨夜はお返事を頂きありがとうございました。
私もあまり上手く言えなくてすいませんでした。

・日蓮大聖人を御本仏と仰ぐ皆様へ ( 考える人 ? 日ノ光に変更 )

この方は、脱会後に知ったブログです。( 元創価学会の男子部・沖縄の人 )
私みたいな脱会した方がよくこのブログに訪れるそうです。
実は、、、まだ3回ほどブログにてコメントを書いて相談したぐらいでした。
まだ多くの質問があり再度質問したが最後にコメント(1か月ぐらい前)してからはコメント欄に
返事をくれませんでした・・・・。(もう返事をくれません!)
良い方ですが忙しいんでしょうかね・・・・。

考える人 ~ 『 だから本当に困った時は己心の妙法の力を信じて呼吸をするように
         お題目を上げることです!』

私も最後の指導を信じてこの方の指導の通りにお題目を上げてきました。
だけど、、現実の深刻な悩みは解決しませんでした!(泣)

Q 唱題と祈念はやはり違うのでしょうか?

( この方もこれを混合している?御書では何か祈り方を分けて指導しているような気がします。
だから、この方の指導は唱題の事であり、祈念とは違う?
そして、現在本当に困っている人はどの様に祈ればいいのか・・・・。)

Q では本当に困っている人(末期癌、一家離散、倒産、難病で痛み苦しんでいる人?)は
 その時はどの様に祈ればいいのですか?( 現在 ~ 本当に困っています。)

● この方は、、『 己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず霞法なり。』

『 心の外には法なきなり。』と御書では心の外に求めるのは外道だと書かれているそうです。

『 仏法で法を外に求めるのは外道!です。』仏典にあるそうでした。

しかし、、御書【 四条金吾殿御返事 】 ? 此の日蓮は主題の五字を汝にづく 法華経受持のものを守護せん事を疑いあるべからず・・・・・。これにつけても強情に大信力を出だし給え!・・・・。
ただ心こそ大切なれ。いかに日蓮祈り申すとも不信なればぬれたるほくちに火をうちかくるがごと
くなるべし。励みをなして強情に信力を出だし給うべし・・・・・。

考える人さんの解説 ~ この御書は四条金吾が厳しい状況下にあった時のご指導です。
                   大信力とは『 他者を絶対に魔から守り・救わんとするのが大信力です!』
一切衆生を救わん!自分以外の不幸な人達を救わん!とが大信力です!
人は不幸の真っただ中にいる時には自分の事だけで精一杯になり、祈りも自己中心的になりますが、そんな時も自分以外の不幸な人々を救わん!と大信力を出したいものです。
自行他行に亘ての南妙法蓮華経です・・・・。

私 ~ この点がどうしても納得がいかなかった!

大信力 ? 私はこの御書を読んだ時に感じたのは仏の加護&諸天善神の加護を信じろ!
      にしか解釈できなかった。


Q 副管理人様はこの御書と考える人さんの解説をどう思いますか?

Q もし良ければ考える人さんに己心の妙法 / 御本尊様のお力についてコメント欄で
  聞いてくれないでしょうか?
  私も、どうしても御本尊様にお力があるのか?それともないのか?はっきりさせたいです。
  脱会後に、この方に指導をもらったのでどうしても頭の中からこの方の指導が離れられない!!

( 私が質問してももう回答してくれんません・・・・。)

以上です。

どうかよろしくお願いします。

追伸 私も大分分かってきたような気がします。

もしこの方のブログが間違っているようであればもう見るのはよします。

御本尊様も近くのお寺に持っていこうと思います。


 

サクラさんへ

 投稿者:HP執行部 副管理人  投稿日:2017年 3月18日(土)06時11分1秒
返信・引用
  おはようございます。

>副管理人様の仰ることは大体ですが分かってきたような気がします。
>本当にありがとう!です。

>はい、、、やはり信心の基本を学ぶ!の事から始めた方がよいでしょうね?
> 一つ分かりました!

それは良うございました。

分からない事や、疑念が晴れるという事は、つまりは、ステップアップした、という事です。
つまりは「精進した」という事です。

今一度申しましょう。

信心の基本とは、

『本尊とは全く他所に求むべきではなくて、自分自身が本尊であり、お題目を唱えるものは等しく
地涌の菩薩であって、仏(日蓮大聖人)とも変わりがないと考えることは、重大な増上慢の極みであり、
大謗法である』という事です。【『戸田城聖全集』第3巻65頁】

この指導こそが全く正しい指導です。一片の方便を使った指導ではありません。

そして、サクラさんは、この戸田先生の指導と、辻副会長の指導とを比較し、どちらが根本たる信心姿勢で
あるのか、ここにおいて理解されたでありましょう。

今一度、再記します。

御本尊様が目の前に御坐(おわ)します

迷える自分がそこに居る。

だからこそ御本尊に祈る。

すると、御本尊様(日蓮大聖人の御魂魄)が、自分の心性に入って来る。
すると、御本尊の御力と己心の仏性が冥合し、また、その功力に対して肉体も環境も感応して、
遂には、祈りが叶う、という現証がそこに顕われる。それを我々は「功徳」と言い、また、
その現証をもって、御本尊様への尊信を更に深めていく。これが信心の姿勢、という事です。

①御本尊様には目に見えない御力が具わっている。
②そして、その御力は、我々の信力行力によって顕われる。(境智冥合)
③したがって、御本尊様は自分の他以外には無い、と思うのは謗法である。

これが、今回の要点です。

本日より、上の①~③を心の中で反復するようにして下さい。


>図 仏法 ? 木に例える!    大本=幹でありこれが根本です!(根本が大事)
>そして枝葉は後から徐々に学べば良いというでしょうか?
>まずは大本=幹の根本をしっかりとまなぶべしでしょうか?

そのとおりです。

そして、その大木(根幹)こそが、上記の三点です。

しっかりと心に刻んで参りましょう。


>副管理人様、、、もう一つだけお願いがあります!
>● 日蓮大聖人を御本仏と仰ぐ皆様へ
>『 我々が拝する御本尊の力と己心の御本尊(読者からの質問に答えて)』
>この先輩も尊敬できる方で(創価学会を脱会後、一人で信心を頑張っている!)
>ブログをしております。
> 実は、この記事は私がスミレでこの先輩に質問をした記事です。
>お手数ですが、、、どうか拝見してくれないでしょうか?
>この尊敬している先輩も外に力を求めるのは仏法にあらず!の指導です。
>どうかよろしくお願いします。


「日蓮大聖人を御本仏と仰ぐ皆様へ」

拝見いたしました。

「考える人」というハンネでブログを開設している様でありますね。

創価学会を脱会して、一人で信心している、との事。

見るにどうやら、創価学会古来の本尊教義に反旗して、戸田先生の本尊指導をも批判し、
あげくには、一大秘法とは本門の本尊ではなく、題目の事だ、などと主張し、その信義たる
ものは、およそ、身延日蓮宗に酷似した三大秘法義になっています。

もちろん、それは間違っています。

まぁ、それは後にするとして…。

サクラさんへの回答、、

>この御文の中の「御本尊」とは、普段、我々が拝している御本尊の事ですよ。
>御本尊には、勿論、「力」があります。
>南無妙法蓮華経の文字は『即』本仏の魂なのです。

この御方も「外に力を求めるのは仏法にあらず!」と言いながら、しっかりと自分と対面する
御本尊の力用を述べておられます。

つまり「外に力を求めるのは仏法にあらず!」そして「御本尊は自分自身の心の中にしかいない」
という思考が、いかに一片の小義でしかない、という事が、ここにおいてお解かりでありましょう。

もとより、御本尊は自分自身の心の中にしかいない、のであれば、対面する御本尊など必要ないのであり、
それこそ、日蓮大聖人が出世の本懐として御図顕あそばされた御本尊の大義など、元からして不要であった、
という事になります。

もとより正論を言うならば、いかに題目を唱えようとも、正鏡たる御本尊が存在していなければ、そこに
境智は冥合せず、そこに功力は生じない、というです。つまり、単に題目を己心に対して唱えるのであれば、
それこそ身延の信者も、顕本法華の信者も、そして、立正佼成会の信者も、みんな題目を己心に向かって唱える
事が出来るのであり、その理屈がとおるならば、対象となる御本尊などは、実際どれでも構わない、という結論
になってしまう、という事です。

したがって「外に力を求めるのは仏法にあらず!」「御本尊は自分自身の心の中にしかいない!」という
信心は、まさしく一片の矮小義であり、それを信心の根本とするならば、それこそは謗法となる、という事を
しっかり覚えて下さい。

サクラさん、よろしいでしょうか。

なお、紹介されたブログの管理人(考える人=日の光)の記述においては、我ら正統・富士門流の教義について、
色々と批判し、また、本門戒壇の大御本尊に対しても痛烈に批判しております。

しかし、それらの内容を見るに、何やら創価広宣部、または、宿坊、波田地、兵頭、田口などの策謀隊の匂いも
致します。その理由は唯(ただ)一つ。創価学会員が単に組織から離れたくらいで、これだけ創価学会の教義から
脱線するなどは、まさに初手から創価学会の信心に即していなかった、という事であり、それよりも何よりも、
法華講員の樋田氏に対する強烈な対抗意識は、もはや、謀略隊の心性である、というのが、私自身の実感です。

見るに、創価脱会者が日蓮正宗に入信する事を阻止するを一つの目的としている様にも思えます。
もしや、この「考える人」とは、彼の「アンチ日蓮正宗」の管理人である「ヒデ」なる者のダミーであるかも
知れません。

サクラさん、気を付けましょう。

色々な立場の人に質問されるのも結構でありますが、事、信心に関して言えば、それは迷義の元ともなります。
ましてや、一大秘法は題目だといい、戒壇の大御本尊を矮小化し、戸田会長の指導を批判中傷などは、それこそ、
純粋な信心を惑わす邪言です。

サクラさんが尊敬する、そんな元学会員の先輩(考える人)が云く、

>「謗法の地にある御本尊には大聖人の魂は住まない」との「創価永遠の指導者」戸田の教え(詐欺説法)との
>整合性もあるかのように言えるのだ。
>(※もちろん、この戸田の教えは、驚くべき南無妙法蓮華経の御本尊の否定だが、創価狂信者やすでに頭破七分

>となった創価学会員ならば納得させられる魔の教えなのだ。)

はてさて、学会員であった者が、ここまで戸田会長を侮蔑するなどは、いまだ見た事がありませんが、こういう
元学会員を「よき先輩」として尊敬するサクラさんの信心とは、一体、どのような信心なのでありましょう。

何やら、私の方が解からなくなって来ました。

無論、南無妙法蓮華経が根本で、御本尊はその二次的産物であるかのような「考える人」の主張などは、
私からして大叱責に値(あたい)する邪論でありますが、もし、サクラさんが、この「考える人」の本尊義を
中心に考えている(尊敬している)ならば、今後、サクラさんからの質問を受けつつも、その返す刀(かたな)で、
サクラさんを破折しなければなりません。

ここに断言致しましょう。

「考える人」は、サクラさんにとって悪知識です。

日蓮大聖人の御教えからすれば、即刻、この者から離れなくてはなりません。

はたして、サクラさんには、其れが出来ますか?

今となっては、その方が重要な話となります。

先ずはお答え頂きましょう。
 

~ ご質問です! ~

 投稿者:サクラより  投稿日:2017年 3月16日(木)16時07分42秒
返信・引用
  副管理人様へ

こんにちわ。
昨夜は回答を頂きありがとうございました。
本当にありがとうございました。

突然にこちらにお邪魔して色々と質問をしてすいませんでした。
私も思い切って今まで質問をしてきました。
本当にすいませんでした!

副管理人様の仰ることは大体ですが分かってきたような気がします。
本当にありがとう!です。

はい、、、やはり信心の基本を学ぶ!の事から始めた方がよいでしょうね?

一つ分かりました!

図 仏法 ? 木に例える!    大本=幹でありこれが根本です!(根本が大事)

そして枝葉は後から徐々に学べば良いというでしょうか?

まずは大本=幹の根本をしっかりとまなぶべしでしょうか?

副管理人様、、、もう一つだけお願いがあります!

● 日蓮大聖人を御本仏と仰ぐ皆様へ

『 我々が拝する御本尊の力と己心の御本尊(読者からの質問に答えて)』

この先輩も尊敬できる方で(創価学会を脱会後、一人で信心を頑張っている!)
ブログをしております。

実は、この記事は私がスミレでこの先輩に質問をした記事です。

お手数ですが、、、どうか拝見してくれないでしょうか?

この尊敬している先輩も外に力を求めるのは仏法にあらず!の指導です。

どうかよろしくお願いします。

それでは。。。




 

サクラさんへ

 投稿者:HP執行部 副管理人  投稿日:2017年 3月15日(水)14時31分24秒
返信・引用
  >副管理人さん、、、〝 辻副会長 指導 ① ② " (You Tube  花柄の絵で表示されている。)を
>どうか見てくれないでしょうか?
>かなり昔の創価の幹部の辻副会長ですが、この指導が今大変に人気がありみなさん見ているそうです。

早速に拝聴致しました。

①と②と合せて約2時間の指導でありますが、その一端を聴けば大半の指導内容はつかめます。
それは何故か言えば、この手の指導は、何回も会合で受けましたので、その概略がつかめるのです。
なお②の指導は、昭和55年以降の指導ですから、御山(冨士大石寺)の猊下は日顕上人です。
また、辻副会長の指導の合間に「御本尊様に懸命に祈ったら、動かなかった両手が瞬時に動いた」とか
「喉が渇く程の(進行した)糖尿病が1日で治った」とか、学会員の体験発表などが紹介されておりますが、
これをこのまま受けるならば、日蓮正宗の御本尊が何(いか)に素晴らしいか、という事になります。

加えて、これらの指導が、なぜ今になって人気が出た、と云えば、こういう指導を今の幹部はしていない
からです。日蓮大聖人。御本尊様。そして富士大石寺。昭和の草創期から闘ってきた学会員からすれば、
それこそ懐かしい信心の故郷です。しかし、今の創価学会は、池田センセーと奥様の事ばかり。
表彰を受けた、勲章を貰ったなどは、もう飽き飽きしているのです。


では、本題にいきましょう。

>●外に求めるのは外道!、自分の中に御本尊様があるんだ!・・・、そう思って題目を上げると
>功徳があります! 自分の仏性が現れてスイスイと磁石の如く御利益を呼ぶんだよ!
>と指導されていました。
>どうかこの指導の感想をぜひ聞かせてください!

わかりました。

>「外に求めるのは外道!、自分の中に御本尊様があるんだ!」

しかし、辻副会長は『内(なか)も外も大事』とも言っていますね。
また、『御本尊様を拝まないのは謗法だ』とも言っています。

つまり、外に求めるは外道! 自分の中に御本尊様があるんだ! という指導は、
信心姿勢の一端を述べたものに過ぎません。

根幹は、やはり御本尊様と自分です。

今一度、戸田会長の指導をここに示しましょう。

『本尊とは全く他所に求むべきではなくて、自分自身が本尊であり、お題目を唱えるものは等しく
地涌の菩薩であって、仏(日蓮大聖人)とも変わりがないと考えることは、重大な増上慢の極みであり、
大謗法である』と。(『戸田城聖全集』第3巻65頁)

どうですか。

この指導こそが全く正しい指導です。一端の方便を使った指導ではありません。信心の根本を示された
指導です。

辻副会長の指導と比べてみて下さい。

今一度言いましょう。

御本尊様が目の前に御坐(おわ)します

そして、迷える自分がそこに居る。

だからこそ御本尊に祈る。

すると、御本尊様(日蓮大聖人の御魂魄)が、自分の心性に入って来る。

つまり、御本尊の御力と己心の仏性が冥合し、また、その功力に対して肉体も環境も感応して、
遂には、祈りが叶う、という現証がそこに顕われる。それを我々は「功徳」と言い、また、
その現証をもって、御本尊様への尊信を更に深めていく。これが信心の姿勢です。

したがって、戸田先生の指導こそが信心における根本姿勢であり、辻副会長の指導は、その一片に
過ぎない、という事です。

『(御本尊様を)外に求めるのは外道!』と言いながら『御本尊様を拝まないのは謗法だ!』と言う。
つまり、辻副会長の指導は、信心姿勢の一片を述べているに過ぎない、という事になるのです。

よろしいですか。

『本尊とは全く他所に求むべきではなくて、自分自身が本尊であり、お題目を唱えるものは等しく
地涌の菩薩であって、仏(日蓮大聖人)とも変わりがないと考えることは、重大な増上慢の極みであり、
大謗法である』と。

この戸田会長の指導こそが正しいのです。この指導こそを信心の依拠としましょう。
そしてもし、それでも辻副会長の指導の方が、信心の根本だ、と思うのであれば、それこそは、
サクラさんの信心が曇っている証拠です。全体を捨て、一片を取る。実にこれこそが不信謗法と
言わなければなりません。

先ずはここにまとめましょう。

①御本尊様には目に見えない御力が具わっている。
②そして、その御力は、我々の信力行力によって顕われる。(境智冥合)
③したがって、御本尊様は自分の他以外には無い、と思うのは謗法である。

以上です。

どうでしょうか。

>どうしてもお曼荼羅=御本尊様にお力があるのが納得がいきません!

という、サクラさんの疑念、ここにおいて晴れましたか?

もちろん、理屈で分かるものではありませんが、自分の中にこそ御本尊様が居る、という考えが、
一片の思考であり、全体根本の思考ではない、という事は、戸田先生の指導からして理解できる
のではないか、と思います。あとは、サクラさんの『御本尊様に対する信』のみです。

>●御本尊様について ~ 創価を脱会後も創価学会の御本尊さんが家に御安置しています。
>何かあるんでしょうか? ( 10年前に創価より頂きました。)
>以上です。

創価学会の御本尊さん…。
10年前に創価より頂いた…。

つまりは、平成19年に頂いた御本尊、という事ですね。

という事はサクラさん。それは、まさしく『創価学会の御本尊』つまり、創価学会が作成した本尊です。
戸田先生や辻副会長が述べられている御本尊様ではありません。

解かりやすく言うならば、日興上人から破門された農民や商人などの在家信者が、それぞれに寄り集まって、
破門以前に日興上人から戴いた御本尊を、見よう見まねで再度書き直し、それを何体も複製して破門信者に
配布している事と同じ、という事です。

いずれにいたしましても、本日今より、その本尊擬(もど)きを拝んではなりません。
なおもし、この点について疑問があるのであれば、私は、より一層、日蓮正宗本来の甚深な本尊義を
サクラさんに示さなければなりません。しかし、それを読んだとしても、何がどうしてどうなっているのか、
得心などは出来ないでありましょう。なぜかといえば、サクラさんは今、対象としての御本尊自体に対する
疑念がまだあるからです。→→ どうしてもお曼荼羅=御本尊様にお力があるのが納得がいきません!

どうでしょうか。

再度申します。

サクラさんが今仏壇に安置している本尊は、破門された僧侶が所持していた日寛上人の御本尊を、
同じく破門された創価学会が独自に入手して、其れこそ紙に印刷した、たんなる紙切れです。
それこそ、何の力も無い「物体」です。いや、仏法からすれば、異流違背の偽本尊でありますから、
そこには「謗法」という反作用が働くでしょう、

先ずはともかく、自身の命(十界の命)を、その本尊もどきに冥合される事は止めて下さい。

これは、私個人の意見などではありません。

日蓮大聖人の御教えであり、日興上人の御教示であり、そしてまた、戸田先生の指導でもあります。

もとより、自分自身が御本尊であり、自分の中にしか御本尊はいない、というのであれば、このような事は
申しません。自分自身が本尊であるならば、それこそ対象となる本尊などは、どんなものでも構わない、
という事になります。これこそが道理でしょう。

サクラさん。

よろしいでしょうか。
 

~ ご質問です ~

 投稿者:サクラより  投稿日:2017年 3月15日(水)10時53分13秒
返信・引用
  副管理人様へ  おはようございます。お返事が遅れてすいませんでした。今回もご丁寧な回答を

頂きありがとうございました。本当に今まで誠意に回答してくれてありがとうございました・・・。
本当にこのご恩は忘れません。
本当にありがとう!!

副管理人さん、、、〝 辻副会長 指導 ① ② " (You Tube  花柄の絵で表示されている。)

をどうか見てくれないでしょうか?

かなり昔の創価の幹部の辻副会長ですが、この指導が今大変に人気がありみなさん見ているそうです。

● 外に求めるのは外道!、自分の中に御本尊様があるんだ!・・・、そう思って題目を上げると

功徳があります! 自分の仏性が現れてスイスイと磁石の如く御利益を呼ぶんだよ!

と指導されていました。

どうかこの指導の感想をぜひ聞かせてください!

● 御本尊様について ~ 創価を脱会後も創価学会の御本尊さんが家に御安置しています。

何かあるんでしょうか? ( 10年前に創価より頂きました。)

以上です。
 

サクラさんへ

 投稿者:HP執行部 副管理人  投稿日:2017年 3月11日(土)13時48分10秒
返信・引用
  昨夜遅くに帰宅し、サクラさんからの御投稿を確認しました。

再々のご質問ですね。

よろしいでしょう。

その前に、サクラさんは、元女子部であるのか、それとも元男子部なのか、という私からの質問。

>男子部の先輩とは女子部で教学が分からない人が多くて相談できる方が男子部の方しかいなかった理由で
>相談をしてきました。

つまりは「元女子部」という事ですね。

了解しました。

サクラさんは、脱会5年目の元女子部。

これで凡(およ)その自己紹介は終わりです。

では参りましょう。


>私は今までの回答でどうしてもお曼荼羅=御本尊様にお力があるのが納得がいきません!

サクラさん、焦ってはなりません。

諸仏の智慧は甚深無量にして難解難入。

彼の舎利弗でさえ、頭を抱えてしまうのです。

それからして、日蓮大聖人の仏法を、学問的に理解する事などは、到底出来得るものではありません、が、
ただ、難しい、難しい、と言っていたのでは、それこそ何にも始まりませんので、ここではあえて、
解かりやすく、御曼荼羅=御本尊様=己心仏性 という関係において、お話し致しましょう。


>『御本尊には無限の仏力・法力が具わっています。
>そんなに泣かないで!御本尊の力は絶対です。必ず祈りは叶います。』
>今まで創価学会でもそのように指導してきました。

その学会の指導は間違っておりません。

>しかし、、この御書ではこう書いております。
>法華初心成仏抄
>●我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性・南妙法蓮華経とよびよばれて
>顕われ給う処を仏と云うなり・・・・・・。
>よって、、、己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて=己心の仏性ですよね?


サクラさん。

私は先日、申し述べました。

御本尊を全く余所(よそ)に求めることなかれ、とは、自身の仏性。
そして、御本尊に祈念せしめ給え! とは、御本尊こそが仏(日蓮大聖人)である、という事。
そして、この二つは二つにして二つにあらず、それこそが『而二不二(ににふに』の関係、
つまり、境智において一体不二という事です。と。

御本尊あっても我ら衆生が居なければ、その法力は顕現されず、又、御本尊が居なければ、
我ら衆生の仏性は顕現されません。つまり、この両者は別々の個体でありながら、其の実は
一体である、という事です。

したがって、サクラさんが引用された「法華初心成仏抄」の前文にいわく、

『凡(およ)そ妙法蓮華経とは、我等衆生の仏性と、舎利弗・目連等の仏性と、文殊・弥勒等の仏性と、
三世諸仏の解りの妙法と、一体不二なる理(ことわり)を妙法蓮華経と名づけたるなり』と。

つまりは、妙法蓮華経こそ、我ら衆生の仏性と一体不二である、という理(ことわり)を「曼荼羅」と
して顕(あらわ)されたのが日蓮大聖人であり、我らは、その「曼荼羅」を御本尊様として尊信し、
それこそ、一体不二の仏性を涌現させるべく、日夜、勤行唱題において御祈念申し上げるのです。

サクラさん。

お解かりでしょうか。

なお、もし、

>どうしてもお曼荼羅=御本尊様にお力があるのが納得がいきません!

という、サクラさんの疑問が、

「御本尊様」と言っても、ただの紙ではないか、ただの物体ではないか、という疑いから来ているとすれば、
その疑いこそ、もっとも、初歩的な疑念である、と言っておきましょう。

よい例があります。

もしよければ、手元にある一万円札をビリビリに破いて下さい。

………。

出来ますか?

出来ませんよね。

たかが紙なのに出来ません。

なぜ出来ないか。

簡単です。

その紙に画(えが)かれている内容に価値があるから、破れないのです。

無論、その一万円札という紙には、意志も感情もありません。

しかし、人を泣かせ、人を喜ばせ、時には人を狂わせます。

果たして、それはなぜでしょう。

つまり、その紙には力が具わっているからです。

はたして、このような例題を出しては、それこそ御本尊様に申し訳ありませんが、

解かりやすく「説明」するには、こういう例題しか見つかりません。

つまり、物や像(かたち)には、それ相応の力が、それぞれにおいて具わっている、
そして、その力は、我らと種々において相関している、という事です。

紙であるから力など出るわけがない。
木であるから力など出るわけがない。

もとより、こういう批判をする人は、まずは科学の初歩から勉強すべである、と私は思います。

日蓮大聖人にいわく『此の経の文字は皆悉く生身妙覚の御仏なり。然れども我等は肉眼なれば文字と見るなり。
例せば餓鬼は恒河を火と見る、人は水と見る、天人は甘露と見る。水は一なれども果報に随つて別々なり。
此の経の文字は盲眼の者は之を見ず、肉眼の者は文字と見る、二乗は虚空と見る、菩薩は無量の法門と見る、
仏は一々の文字を金色の釈尊と御覧有るべきなり。即持仏身とは是なり』と。(御書全集 1025頁)

はたして、御本尊に図現されている御文字の数々…。

日蓮大聖人は、それらの御文字は悉(ことごと)く御仏である、と仰せです。
しかし、我ら凡夫の肉眼では文字としか見えません。また、二乗はそれを虚空の表現と見ましょう。
そして菩薩は、それらの文字を無量の法門と見ましょう。しかして仏は、それらの御文字を金色の釈尊と見るの
です。そして、それらの御文字、つまり、御本尊様の御文字をすべて御仏と見えた時、じつにそれこそが仏身を
持(たも)つ、つまりは、自身の仏性を涌現させる事になるのです。

さて、サクラさんは、御本尊の御文字などは、どの様に見えるのですか?

>どうしてもお曼荼羅=御本尊様にお力があるのが納得がいきません!

やはり、このように仰せになりますか。

>納得がいきません!

もとより、仏法などは納得出来るものでありません。いうまでもなく『納得』とは、自身の心において理解し、
得心するという事でしょう。しかし、仏法義は、我らの心のみで納得出来るものではありません。

よろしいでしょうか。

当書に云く『心の師とはなるとも心を師とせざれとは六波羅蜜経の文ぞかし』と。(同 頁)

御本尊あっての仏性。仏性あっての御本尊。

そして、その相関(境と智)は一体不二である。

したがって、自身の仏性を中心にして信仰に臨めば、その信仰こそは、心を師とする己心義となるのです。

今一度言いましょう。

『心の師とはなるとも心を師とせざれ』

無論、心の師とは、御本尊様に御祈念する、其の信義行態をいい、それを別して言うならば、実に心の師こそは
御本尊様をおいて他には無い、という事になるのです。

よって日寛上人がいわく『若し正境に非ずんば、仮令(たとい)信力・行力を励むとも、仏種を成ぜず』と。

自分の心を依拠にしようとも、正境、つまり、正しい御本尊と冥合しなければ、仏性などは言うに及ばず、
一生成仏も叶わない、という事になるのです。だからこそ、御本尊様が第一なのです。じつに『心の師』とは、
その意をもって言うのです。

>御本尊を信じてと書いているのは、御本尊=己心の仏性ではないですか?

まだ、この疑問が残りますか?

今一度言います。

御本尊あっての仏性。仏性あっての御本尊。
しかして、御本尊こそが第一である、と。

はたして、御本尊の御文字を、単なる紙上の文字としか見えない人が、己(おのれ)の仏性を拝むとは、
一体どういう事でしょうか。だからこそ大聖人は言われるのです。『心の師とはなるとも心を師とせざれ』と。

どうでしょうか、サクラさん。

少しは疑問が晴れましたか?

自分を映す鏡と、その鏡に映る自分…。

もとより、鏡が無ければ自分は映らず、自分が居なければ鏡に映りません。
また、自分がそこに居ようとも、曇った鏡では自分を映すことが出来ませんし、
映ることも出来ません。

鏡と自分。映すものと映されるもの。

言うまでもありませんが、自分の顔は自分の目では見えません。では、どうするか。

その答えを私は述べました。

お解かりでありましょうか。

いや、解からなくとも焦る事はありません。

ゆっくりと参りましょう。

求道の為の疑念であるならば、副管理人として拒むものではありません。


【追記】

ところで、前(さき)に質問させて頂いた、サクラさんがお持ちの御本尊の件。

出来ればご回答下さい。

今においては重要な事です。

よろしくお願いします。
 

Re: ご質問です!

 投稿者:HP執行部より  投稿日:2017年 3月11日(土)00時15分2秒
返信・引用
  > No.845[元記事へ]

サクラよりさんへのお返事です。

副管理人がお仕事の都合で御返事が遅れると思います。
しばらくお待ちください。


> 副管理人様へ
>
> ご丁寧な回答を本当にありがとうございました。
> 本当にありがとうございました。
>
> 男子部の先輩とは女子部で教学が分からない人が多くて相談できる方が男子部の方しかいなかった理由で相談をしてきました。
>
> 副管理人様、、、もう少しだけいいでしょうか?
>
> 私は今までの回答でどうしてもお曼荼羅=御本尊様にお力があるのが納得がいきません!
> 今まで創価学会でもそのように指導してきました。
> 『 御本尊には無限の仏力・法力が具わっています。
> そんなに泣かないで!御本尊の力は絶対です。必ず祈りは叶います。』
>
> しかし、、この御書ではこう書いております。
>
> 法華初心成仏抄
>
> ● 我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性・南妙法蓮華経とよびよばれて
>   顕われ給う処を仏と云うなり・・・・・・。
>
> よって、、、己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて=己心の仏性ですよね?
>
> だから、、、禍も転じて幸いとなるべし、あひかまえて御信心を出だしこの御本尊に祈念したまえ!
>
> ( この御本尊=己心の仏性 ? になるのではないですか?)
>
> それと、御書で御本尊を信じてと書いているのは、御本尊=己心の仏性ではないですか?
>
> この点がどうも納得がいきません・・・・。
>
> お手数ですがその点をもう一度教えてくれないでしょうか?
>
> どうかお願いします。
>
> それでは。。。
 

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